昭和51年03月26日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
お道の信心は、天地金乃神と一心なりと、言うなら神と人とが一心になる。ひとつになる。それを目指させて頂くのがお道の信心です。言うなら神様の心を、心としてと言うのです。ですからもう限りない精進、だから限りないお徳。また限りないおかげが頂けると言う事になります。勿論これは現世だけのことではありません。そういう生き方をいよいよ身につけて、そういうひとつの手がかりをもって、精進していくところに、あの世にも持っていかれる。
この世にも残しておけると言う事にもなるし、また御霊ながらもその精進をいよいよ限りなく続けていく。天地金乃神と一心。それは必ずしも教祖様だけの専売特許ではないと言う事でございます。信心もまあいろいろあります。そこにあの真の信心と、教祖様は、特別この真と言う事を、只々信心とは仰ってない。どうぞその身から打ち込んでの真の信心をしてくれよとこう仰っておられる。その真真からこの打ち込んでの信心でないとです、限りない精進ということになりません。
一通りのことが例えば、分ったらもうその中から一歩も出ようとしない。そしてそれがそれだけで例えば良いように思う。それでは信心が進みません。どこへ参っても片便の願い捨て、ただ拝んでくると。ですからそういう拝むだけの信心と、言うならば話しを聞いて助かる信心と、まぁそういうふうに分けますかね。だから拝むというのは、これはわが心に神がござるから、おかげになるのじゃというおかげですから、例えば病人が治ったとか、問題が解決したとかと言うだけにしかすぎません。
だからそういう信心をいかに一生続けたところで、まあ、( ? )おかげになると言う様なおかげを受けてもです、なら天地と一心になると言う様な事は出来ません。ここで片便の願い捨てであると。ならここでは、神がもの言うて下さることになるわけですが、ならそのもの言うて下さることを、どう言う事を言うて下さるかと言うと、神様が氏子と一心になりたいと言う事ばっかりなんです。金光様のご信心はね、天地日月の心になるとこ肝要であるとかね。
おかげは和賀心にあるぞと、と言うて、まあおかげでつって、実は和賀心にならせたいというのが神の願いです。おかげでつってと言うと、ちょっとおかしいですけどもね。先日、2,3日前のここで研修の時に、栄四郎がそんなこと言ってました。僕はどうでも、えびで鯛釣るようなおかげを頂きたいと思うから、まずそのえびを頂かなければならない。これはまぁこちらから少しばっかり大変、良い物を頂いたと言う様なときに申します。あんまり良いことではないわけです。
はぁえびで鯛釣る様な事してすみませんと言うて、却ってそう言う時に使う言葉ですけれども、栄四郎いわくのところはですね、もう私共がいくら頑張ったところでです、どれだけのことを身に付けたところでです、神様からご覧になりゃえびのような信心だろうと、こう言うのです。けれどもおかげを頂きたい。それは鯛のようなおかげを頂きたいと思うておる。そこでそのえびのところを大事に、えびと言う事は、ここでは信心修行と言われております。
だから僕がこのくらいの信心で、このくらいの修行で頂けるならばです、その自分の身にもてる真心というか、自分のこの体で続く限りの修行はさせて頂きたい。それによって、鯛を釣るような、まあおかげを頂きたいというわけであります。まさしくその通りだとこう思います。私共がいかになら、おかげを頂きましたところでです。それでもです、いわゆる神様はおかげは和賀心にあり、生神金光大神天地金乃神一心に願えと。一心に一心だ一心に願え。おかげは和賀心にあるぞと。
おかげというものでつって、そして和賀心にならせたいという一念が、感じられるでしょうが。おかげと言わんと人間がついてこん。だからおかげおかげはね、和賀心にあるぞと。そして、本気でなら和賀心になろうと、もう努めるというかその姿勢を作っただけで、おかげを受けられるというのは、金光様のご信心。ですからほんのちょこっとばっかり信心しておかげを頂いたから、もうこれで良いと言う事はない。もう限りない和賀心を目指しての信心。
その和賀心和らぎ、喜ぶ心の毎日毎日が、本当におめでとうございますと言いたいほどしの心の状態。心がいつも和らぎながら和んでおる。どんなことがあっても、それを崩す、崩すことがないほどしの心。そういう心を目指させて頂いて、日々信心のけいこさせて頂くのですから、もうどれほど御理解を頂いてもです、どれほど修行させて頂いても、やはりその和賀心ひつとに焦点をおいておると言うてもよいほどしです。というほどしに、この和賀心というのは、広くて深いものなんです。
ですから、もうこれだけわかったからと言った様な事が、頂けるはずがない。昨日研修会のときに、そんな話しが出たんですけども、教祖様の御教えの中に、「あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても、だんだん難儀なことが起こってくると、世間ではどうしたことであろうかと言う様な事があろうがと。信心しておかげを受けるのは、人が良いのと悪いのは別ものぞ」と仰る。もうあの人は本当に、善人。素直だと。仏様のような人。ところがそれだけではです、むしろ人から馬鹿にされるぐらいなこっで、おかげにはならんです。
信心をさせて頂いて、いよいよその素直心に磨きがかかってくると言う所に、おかげがあるのです。はぁあの人は几帳面。時間でんなんでんきちとしなさる。もうお家にいくとそれこそ、もう片付いとる。もうきちんとしちゃる。もうあそこの家は乱れたこつ、もうあげんキチッとすんなら気持ちが良いっと言う人が、やはり産まれつきそうせにゃおられんような人があるです。あたしは信心でいう、いうならいつもあの、風呂場のことで例をとって申しますけれども、きちっと整理整頓する。
しかも後から使う人立の事を思うてきちっとする。きちっとしておく。人がみえる。そのみえるその人が、はぁ本当に気持ちがええと思われるように、きちっと取り片付けておく。あぁあそこの家はどうした汚い家じゃろかと、もう嫁さんがびったりじゃからきちっとそう言う事を思わせるだけでも、人が幸せになれない。だからきちっとせにゃいかん。また、あぁきちっとしない人は、本当のお徳は受けられんとさえ私は申します。
けれどもねそれが産まれつき、きちっとせにゃすかんという人じゃ、おかげを頂かんです。これは不思議です。なしかっち言うときちっとしとったつに、人がちょいと汚すと、今はわいたつに、今ふいたつにもう汚してっと言った様な心があるから、おかげ頂かんとです。はぁ時間励行でん、きちっとせな気色ん悪かという人があるです。それは自分が気色ん悪かけんでん、きちっとしよるとです。そして人が遅かとほんとに、時間励行やかましい言う様な人もあるです。
だから信心を頂いてきちっとせにゃおられないのである。信心をさせて頂きゃ、1分間だって時間を無駄にするようなことはでけんと言う事が分っておるから、きちっとするというのでなからなければ、ほんとのおかげにはなりませんと言う話しじゃった。そのへんのところにです、私はお道の信心の素晴らしいところがあると思う。教祖様の仰っておられることは、もうそげなものずばり、決してまんまんしゃんのごとよか人じゃけんというちから、おかげ頂くようになかて。
かえって正直者が馬鹿を見ると言った様な結果になるんだと。けれども信心によってなおく正しく、信心によってきちっとしたことが、しなければおられなく成って来る所に、人を責めると言う事でもなからなければ、人を軽く見ると言った様な事もなくなってくる。自分自身が助かることのために、そうしておるのです。和賀心に神がござるから一心を立てればおかげになると言う様な、意味での信心。いよいよ神と一心、神と一体になることのための、いうなら神の心を心としての信心。
いわゆる天地日月の心と言った様な心を目指して一心に信心していくときに、限りなく美しゅうならにゃおられんのであり、限りなく辛抱強い受けて受けて受け抜く心がでけてくるのであり、もうそれこそ実意の限りをつくさなければおられない、いうならきちっとした生き方が、生活の上にも現れて来る様なおかげになる。私神がものいうて下さる、今まではものいうて下さらなかった。ものいうてくれる所がなかった。ただ一心に拝むと言った様な事だけだったけれども、神様がものいうて下さる様になった。
片便の願い捨てではなくなった。いうならどう言う事をいうて下さるかというとです、天地金乃神と一心なりと言う様な心の状態にならせて頂くことを繰り返し、繰り返しあらゆる角度から、お説き下さるのです。昨日あるところから、夫婦で参ってみえた。一人息子がもう勘当する。もうとにかく何日も帰ってこん、帰ってきたときには銭をせびりにくると。それでまぁ勘当すると言うわけです。
いくら勘当したところであんた、そればってんその親子の縁というものがそんな、ただ勘当しただけぐらいで切れるもんじゃない。それよりも勘当ってなんでん思わずにです、やはりおかげを頂いてくれんか。ある宗教をもっておる。それでそうにゃお参りもし、そうにゃお願いもしたけれども、もう向こうの先生が、そげんとは勘当したほうがよかばいっちいわっしゃった。だからまぁ勘当するというわけです。ならあんたがここに参ってくることはいらんじゃんのと。
あんたがもう、勘当するっち決めとるなら、あんた勘当すりゃよかっちゃんね。なんとかしてです、勘当せんで済む様なおかげを頂きたいけん、いうなら参ってきとるとじゃろうもんと。いやそれがあなた、昨日は息子が帰ってきてから、息子の方が親ば勘当するっちいうたげな。そんならまた話しがだいぶん違うのっち言うた事ですたい。だからそげなこつ言うごたる息子なら、そんなこと親の方から先、勘当したがよかっと、まある宗教の先生が言われたわけです。
それでまぁ一辺合楽さに参ってみろうかと言う事になったらしいんです。御届けをさせて頂いたら、そのお母さんの名前が雪子というんです。漢字の霜雪のゆき。だからこりゃ、もう始めからあんただん不幸せになる、第一あなた達の夫婦の顔がね、もう不幸せにならにゃんごたる顔ですよっち私がゆうた。もうほんとに、不幸せになる顔は決まっとるです。けれどもあなたが5日間ここに参ってきてごらん、そして鏡ばみてごらん。必ず今度はおかげ頂く顔になるよっと言うてから、昨日話したことでした。
これはもうほんとです。もう2・3日、四日五日と、ほんとにあぁ金光様ちゃ有り難いち言うて参ってくるごつなったら、もう10日もせんさきに人相が変わるです。だから心の中に一つの喜びの芽というものが出る、頂けるからです。だからそれを育てる事の為に、今日のいわば御理解があるわけです。いよいよ限りなく育てていくと言う事。だからねこの漢字の雪子を平仮名のゆきこ、ゆきこと変えなさい。平仮名で軟らかく。それでおかげ頂くじゃろうかと。
そりゃね漢字のその雪子、雪子という名前の人がおかげ頂いたためしがない。この雪子ですよ。いつか熊谷さんとこのまごが雪子っちつけたから、私がそりゃしゃっち雪子じゃないといかんなら平仮名になおさんのっち、私が申しましたことでしたけどね。そういう何かがあるです。だから名前を変えただけでも幸せの道学校かと言うぐらいじゃからね、心のうちを改めて、心のうちを変えたら、もういよいよ間違いのないおかげになるよと言うて、話した事でした。
明日から、( )にまいりゃよかろうかっち言われるから、まぁ今までそういう信心をしよんなはったんでしょう、( )位の信心を。だからあたしがそげなおかげば頂かなならんとに、( )じゃでけん、明日から5時に参ってきなさい。朝の5時の御祈念に参ってきなさい。そげんたいした遠い所でもないんだからっと。まぁ昨日申しました事でしたけれども。神様がもの言うて下さると言う事はそう言う事だと思うです。私は名前を親に頂いた名前を変えるとか変えないとか言った様なこっちゃない。
つぎの名前を変えただけでも運勢が変わると言うぐらいだから、心のうちを改めたら、こりゃもう絶対のおかげになる。それが神がもの言うてくれるというか、そこんところが神様が、いわいる片便の願い捨てではなくて、こういうあり方になれよと言う事を教えて下さるわけなんです。信心を段々させて頂くと、ろくそなかもんでもきちっとせにゃおれなくなってくる。信心を頂いてご理解を頂けば、頂くほどです言うならば自分の神様に頂いておる、素晴らしいものが自分の心の中に発見できるようになると。
例えばもうほんとに若いときから私は考えた。もう、私ごたるふうたらぬっか男はおるまいと思うた。こげなこっちゃとても成功はでけんと思いながらもです、やはりもって産まれたふうたらぬくさですから、それを(ぷー)とすることもできなかった。こげな性根じゃおかげはいただけん。こげな性根じゃ成功はでけんと思いよった。ところがひとたび神様の前にでらせてもらい、神様と交流する生き方が身についてきたら、その私の一番、欠点と思うておった。
そのふうたらぬくさが、神様の私に、白羽の矢を立てなさった、白羽の矢を立てなさったもとであったと、言う事になったときに、私のいわばいよいよ、特徴になってきた。ふうたらぬくさと言う事は、私は人からこう言われたら、嫌と言い切らんという性分。金貸してくれちゃもうかってでん、どげんかしてやらにゃでけん。くれと言うもうもたんもんでん、こうあるごつしてやらでけん。そしてあとでこげなこっちゃ、おれは成功はしきらんと思いよった。
嫌と言い切らん、ほんとにあんたばかじゃんの嫌なら嫌、はっきりいわなこてと言われてもです、それが言い切らんぐらいな、そげなふうたらぬくい男であったけれども、いよいよ、今度は神様と私との交流が始まって、神様がどういう無理難題を仰っても、泣く泣くでも嫌と言い切らなかったことが、今日の合楽です。だからそのふうたらぬくさに磨きがかかったわけです。まんまんしゃんのごたる人といわれるような人でもですね、どうしてあんなに難儀が続くだろうかというのがある。
信心をしておかげを受けると、受けないというのは違うんだと。信心をしてと言う事は、いうならばお願いをする話しを聞く。そしてその話しを聞いて、あらたまっていく。そのいうならふうたらぬくさとか、またはすなおさとか、又は正確さとか。今までそれを人間の美徳と、言う様なものを身につけておっても、それではです、ただいうならば、清らかな人であっても、先人にあまんずる一生で終わらなければ、ならないような結果が、うまれてくるんだと。
その例えば清らかな心の人が、いよいよ信心の教えを頂いて、それに磨きがかかってくるときに、始めてお徳を受けるのです。そしてぎりぎり決着どころは、どこかというと、天地金乃神と一心なり。この方が祈るところは天地金乃神と一心なり。これは教祖金光大神様の専売特許ではない。和賀心が言うならば生神というのが、教祖様だけではない。みんなもその生神を目指すと言う事になっておるのが、お道の信心ですから、そこを目指させていくというのがおかげなんです。
そこを目指して進んでいくというのが、いわば神の心を心とするところに、天地金乃神と一心、神と一心と言う様な状態が開けてくるのです。そういう信心を目指さなければ、なりません。この頃から大黒様の前に、お茶やら水やらお供えしよった人たちが、お話しを頂いてお茶水をお供えせんな、いうならおかげの泉をきちっと、といってそれを、お茶、水の代わりにお供えするが、大黒様は一番喜ばっしゃる。おかげの泉が、丁重にするならば、もうそこからおかげが頂けれる。
信心のない者にでも、例えば家族の中によめごが信心がないなら、そのお母さんが一生懸命おかげの泉を頂いて、大事にしておられる。そして信心のない嫁御が色々迷うたり、困ったりしたときにおかげの泉をひとつおし頂いて開いてご覧と。あんたの心の中に、何かそこに開けてくるものが、必ず頂けるよと。そすとそれを頂く。本当にお母さんそうですねと言う様な、事実がはっきり出て来る様なおかげになってくるんです。
日頃お粗末にしておったんでは、おかげにならんと言う様な、私がお話をこの頃からさしてもらう。もう早速もうとりいってから、お三宝作ってからおかげの泉をこう、前においてから紫のふくさをこう、かけてから早速そげんしましたという人が何人もあるです。親先生の言われることは早速、守ると言う事は有り難いですけれども、ただそういうふうに成程きちっとすると言う事を好きな、好きでするとじゃだめ。
本当にそのおかげの泉を、本当におし頂く心があってそうしなければおられないと言う様なものでなからにゃいかん。ほな早速そげん言うたらお茶水はお供えせんな、そしてからおかげの泉だけばお供えする。ほら親先生はその方が一番喜びなさるから。皆さんどうでしょうか。それにまたお茶も水もお供えして信心です。お茶よりも水よりもおかげの泉を大事にして貰い、教えを大事にして貰おうと言う事が、親先生が一番喜ばれる事だと言う事が分ったから、いうならおかげの泉を丁重に扱う様になったと。
それで親先生が喜んで下さる。その上やはり、親先生はお茶がお好きだから、冷たいお水がお好きだからというて、今まで通りそうさせて貰わなければおられない心が、信心です。さぁそれから今日から帰って、また形の上でしただけでは、おかげにはならんって。問題は、その心だよと言う事なんです。本当に親先生はどう頂いておるかと、おかげの泉を大事にすることが親先生を大事にすることと同じような素晴らしいことであると同時にです、やはり親先生を頂いておるならばです。
そのお茶も水もまた、なら今までの思いもまた思いをかけて、そうさせてもらわなければ。私が言うのはいつも形じゃなくて、その心を言っておるわけです。形だけあったら今も皆さんに聞いて頂いたようにです、あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃというても、おかげは頂かんと言う事です。それが信心によって磨きがかけられるときです、始めておかげ。
いうなら磨きをかけられたら、どう言う事になるかと言うと、おかげの泉をいうらな丁重にしなければおられない、今までは粗末であった、ご無礼をしとったことをお詫びをすると同時に、大切にしなければおられなくなってくる。というてもうお茶も水もお供えせんでよくなったけん、かえって面倒が無くなったと言う様な事ではです、おかげにはならんと言う事です。問題はその芯です。その心です。その芯が心が天地金乃神と一心と言う事になっていく精進とは、そう言う様な事だと私は思います。
どうぞ。